列車係を2年程した後、普通車掌になった。客車の車掌だ。
富山県内のローカル線「氷見線」「城端線」「高山線」「神岡線」「富山港線」「北陸線の一部」をローテーションで乗務する。
お客さんからは「バイトの車掌さんかい?」と言われる事もしばしば。何故なら髪が長かったから。制服が大きすぎて板に付いてなかったから。…だと思う。
この頃の目標は「特急列車の車掌」、年功序列だから順番が来ないとなれないのだが、車掌長が着る白い制服に憧れた。
高校野球の試合経過を車内放送したり、車内が混んでると車掌室にもお客さんを入れたり、そんな車掌だったからお客さんには可愛がられた。
さて音楽。
「親不知情景」はワンポイント契約だったからひと通り話題になって火が消えた。
それでも北陸で8000枚のセールスだからローカルヒットと言えた。
音楽状況は「サザンオールスターズ」「世良公則とツイスト」などバンド全盛時代。念願のレコードも出たし「もう、イイヤ」と思ってたのだが…。
ある時、行きつけの楽器店の店長「伊藤クン、ポプコンに曲出してくれない?」と要請あり。「出場者がバンドばっかりでつまんないから」との事。
曲が完成したのが大会の前日、無審査で「第21回ヤマハポピュラーソングコンテスト富山県大会」に出場。タイトルもその場で「サヨナラ模様」と決めたほど急な出来事だった。
やはり出場者はほとんどバンド、その音圧に圧倒されつつもシットリと歌った訳だが、「こりゃ、かなわない」と応援に来ていた同僚達と発表を待たずに富山教育文化会館を後にした。駅前の居酒屋で「お疲れさん」と酒盛りをしていた。
同僚の中でひとりだけ「最後まで見てく」というのがいて「トシヒロ、選ばれたぞ、優秀曲賞だってさ」と雪の中を知らせにきた。
そう1981年1月16日は大雪だった。
特急列車は全て運休。動いているのはローカル線のみ。審査委員長のヤマハの越智氏(名古屋支部副支部長)が後に言っていた「特急が動かないから一旦行くのを止めにしたのだが、何か胸騒ぎがしてね。前夜からローカル線を乗り継いできたんだ」
通常はグランプリ曲のみ出場する「中部、北陸大会」なのだが、この方の推薦で僕も出場することになった。
大会は4月2日。
それまでの間、名古屋支部でクリニックを受ける。サポートバンドとの音合せ。この時のディレクターが後に東京本部で僕と「Look for myself」を制作する事になる「野口義修」氏。彼とは最新アルバム「Re:generation」も作ったところだ。
この時、「サヨナラ模様」をアレンジしたのが「森田雅彦」氏。「デジタル雨」「星のステーション」etc、数多くの楽曲を提供していただいている。今回のアルバムでも「To You」「ノスタルジック メロディー」をアレンジしている。
何度かの名古屋通いの後に臨んだ「中部北陸大会」季節はずれのインフルエンザを患ってしまった僕の声はヒサン…、熱は38度以上の状態。結果はこれまた優秀曲賞。つまり第2位。しかし今度はストレートに「つま恋本選会」へ。
5月10日、静岡にある「つま恋」の空は晴天。この時期にセミの鳴き声を聞いて大感激。野口氏に引率されてサポートメンバーとの出場は遠足気分。「慰安会」と称していた。
僕は観客が多ければ多い程、歌うのが楽しいタイプ。24番目の登場、気持ちよく歌わせていただいた。会場に蝶々がとんでるのがみえた。
歌い終ると芝生の上でメンバーとビールで「カンパイ!」
グランプリだと再演しなければならないのだが、誰も思ってなかったのか、よく飲んだ。
「何か賞はもらえるかな」とは思ってたけど「中部大会で2位の曲が本選会で…」というのもあった。
ところが発表が進むに従って各レコード会社賞がどんどん僕に送られる。酔ってドキドキしてるのかよく分からない状態の中で。司会の「円広志」氏が叫んだ「グランプリは!エントリーナンバー24!『サヨナラ模様』!」
この瞬間、僕の人生は大きく変化した。