伊藤敏博 ここだけの裏プロフィール

ある年の8月26日夜

保育所

小学校

中学生

高校時代

国鉄入社〜親不知駅員

国鉄〜富山車掌区列車係時代

富山車掌区〜車掌時代(デビュー前)



<ある年の8月26日夜>

伊藤 昭一、勢恵子の長男として新潟県直江津市(現上越)の母の実家にて出生。
泣かなかった為、産婆さんに尻をつねられる。
その時のアザが現在も右尻に燦然と輝いている。

その後、二十歳過ぎるまで屋号「伊藤源左右門」戸主「伊藤 昭一」の息子として祖母(シノ)、母、妹(直美)の五人家族で「親不知」(おやしらず)で暮らす。
後に戸数わずか130軒ほどの小さな田舎村から
「こんなアカ抜けした好男子」が育つなんて・・・と評判になったとか・・・(笑)

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<保育所>

地元の歌外波(うた、となみ)保育所へ。
お昼寝時間が苦痛で抜け出してはトンボ採りに山へ。
砂遊びに海へ、の保母泣かせ園児。(だったそう・・・)
「お医者さんごっこ」の記憶アリ。いつも患者さんにされていたような・・・。


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<小学校>

地元の歌外波小学校へ。
入学時は50名近くのひとクラス、卒業時は27名に減っていました。
転校していく家族が置き去りにする犬を一手に引き受け自宅裏の小屋、近くの舟小屋などに分散して面倒を見ていた。多い時には7匹もいた。
どちらかというとガキ大将タイプ。
犬達のエサ用に給食の残り物を収集してまわるのがその頃の昼休み。

3年生の時、担任の小松崎先生(女性)が
「トシヒロ君は詩を書くのが上手いから」
と<しの書き方>という本をくれた。以来しばらく母方の祖父と詩の文通をして誉められるのがうれしくて・・・作詞のキッカケ。


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<中学生>

地元の歌外波中学校へ。
途中で廃校、3年時は青海中学校へ通学。野球少年。
歌外波中学時代は毎日10Kmのランニングと砂浜グランド(現在は高速道路と海岸浸食により消失)での練習で声、身体を鍛える。部員12名。
ちなみに青海中学ではショートで二番打者。部員六十数名。しかし、自分のエラーで県大会予選敗退。エライ挫折感を味わう。
しかし、立ち直りは素早い。好きだった女生徒が所属している合唱部から
「男性パートが足りないから」
とスカウト(?)され、一夏だけ合唱部員に。
NHK音楽コンクールで県大会第二位に輝く。
その子には告白できないまま別の女生徒5名と交換日記。おおいに文章のトレーニングになった。
片や、フォークソング、ギターに興味を持つ。
きっかけは音楽の先生「渡辺 キミ」さん。
ある日一枚のレコード見せ
「今度デビューした『本田 路津子』さんです。皆さんの先輩ですョ。青海中学校で私が教えました」
タイトルは<秋でもないのに>。
いわゆる音楽業界がグッと身近な存在に。
ボクはキミ先生から「トシ」と呼ばれ可愛(?)がられて、先生のフルートをただみたいな額でもらったり。(少しだけ吹けます)

父が友達から譲り受けたヘンなギターで練習開始。(ギター遍歴は別の機会に)


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<高校時代>

県立糸魚川(いといがわ)高校へ。
迷いなく野球部へ。ところが監督曰く
「キミは背が低いから他の部の方が・・・」
で、剣道部に入部。
二年時、生徒会副会長。
三年時、応援団長。(ナンパなタイプ)
世の中は大フォークブーム。二年生の時に中学の頃から好きだった娘を思って作った「ボクとっても大好きです」が初作品?
いろんなアーチストのコピー開始。
バンドも結成。その名も<クサクサバンド>。サイドギターとボーカルを担当。勿論長髪ロンゲ。ビートルズ、はっぴいえんど、チューリップなどのコピーバンド。
「イトー君。君は授業ではまったくダメだが、歌の発音はとってもイイネ!」
と学園祭のステージを見た英語教師にホメられる。
他にサッカー同好会結成に参加するなど、完璧な「放課後少年」だった。

1年の6月頃から自律神経失調症、うつ病状態に。
「人はいずれ死んでしまうのなら何のために生まれて、生きてゆかねばならののか」
「見るものすべて、食べる事、息をする事すら虚しい」
約三ヶ月で自力脱出。剣道部のそれはそれはキビシイ夏合宿が効いたかな。
それからは
「ナンデモやってみよう!」
にシフトチェンジ。
上記の「解答」らしきものは以後、現れては消えてゆくを繰り返してる。


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<国鉄入社〜親不知駅員>

高卒とともに日本国有鉄道金沢鉄道管理局に入社。いわゆる地方採用職員。
一ヶ月の研修の後、地元(親不知駅)に配属。
仕事内容は貨車の人間ブレーキ。駅待合室、トイレ、風呂等の清掃。荷扱い・・etc。
地元青年団入会、祭礼等で活躍。
この頃の夢は、小説家、シンガーソングライター、駅長、美容師、教師であった。高二の時以来久しぶりに作った歌(親不知情景)<駅員の先輩「宮成 久雄」と共作>でNHK新潟FMリクエストアワー「シンガーソングライターコンテスト」で優勝。
曲作りを本格的にスタート。(19才)


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<国鉄〜富山車掌区列車係時代>

「もっとたくさんの人に歌を聴いてもらいたい!」
そう思い始めた頃、転勤のチャンスが訪れる。石灰鉱山閉山の為親不知駅人員削減。迷わず車掌資格試験を受け合格(20才)
なぜ車掌かと言うと、車掌区は県庁所在地にしかなかったから。車掌になると言う事はつまり、富山市か金沢市か福井市への転勤を意味していた。富山車掌区に配属。(21才)
富山独身寮に入寮。職場の先輩でもある「川端 弘」氏と出会う。二人でフォークデュオ<おたまじゃくし>結成。組合集会等で人気者に。約二年の活動後、川端氏転勤。解散記念に、自費出版レコード制作。
かたやソロで富山駅前の楽器店「ナンバーワン」店頭で路上ライブを連日行う。(富山ストリートミュージシャン第一号?)
ソロになってからは各種音楽コンテストに出場。入賞を目指すと言うより各会場には多くの客がいて歌を聴いてもらえるからだった。
その一つ第19回ポプコン富山県大会にて歌った「親不知情景」が入賞していないにも関わらず楽曲推薦でヤマハ音楽振興会の本部へ。
「森繁 久弥さんが歌う事になりました。」→「やっぱりダカーポが・・・」→「伊藤君、キミが歌って下さい。」
初めてのレコーディングを体験。
ジャケット写真をコロンビアのフォトスタジオで即OK!レコーディングスタジオに行ったら<若草 恵>氏アレンジでオケは既に完成されてて即歌入れ。その場で初めて聞いたオケに歌入れするなんて、今考えたら
「ゾォ〜〜〜!」
1980年、目出たくコロンビアレコードから発売となった次第。
ちなみに列車係とは貨物列車の車掌の事。一度乗務すると貨物取り扱い駅まで停まらないので曲作りに最適な仕事だった。ここだけの話、こっそりギターを持ち込んでた事も・・・。
乗務区間は福井県の敦賀駅から新潟県の直江津駅(北陸本線)、富山駅から高山駅(高山本線)までだった。

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<富山車掌区〜車掌時代(デビュー前)>

列車係を2年程した後、普通車掌になった。客車の車掌だ。
富山県内のローカル線「氷見線」「城端線」「高山線」「神岡線」「富山港線」「北陸線の一部」をローテーションで乗務する。
お客さんからは「バイトの車掌さんかい?」と言われる事もしばしば。何故なら髪が長かったから。制服が大きすぎて板に付いてなかったから。…だと思う。

この頃の目標は「特急列車の車掌」、年功序列だから順番が来ないとなれないのだが、車掌長が着る白い制服に憧れた。
高校野球の試合経過を車内放送したり、車内が混んでると車掌室にもお客さんを入れたり、そんな車掌だったからお客さんには可愛がられた。

さて音楽。
「親不知情景」はワンポイント契約だったからひと通り話題になって火が消えた。
それでも北陸で8000枚のセールスだからローカルヒットと言えた。
音楽状況は「サザンオールスターズ」「世良公則とツイスト」などバンド全盛時代。念願のレコードも出たし「もう、イイヤ」と思ってたのだが…。
ある時、行きつけの楽器店の店長「伊藤クン、ポプコンに曲出してくれない?」と要請あり。「出場者がバンドばっかりでつまんないから」との事。

曲が完成したのが大会の前日、無審査で「第21回ヤマハポピュラーソングコンテスト富山県大会」に出場。タイトルもその場で「サヨナラ模様」と決めたほど急な出来事だった。

やはり出場者はほとんどバンド、その音圧に圧倒されつつもシットリと歌った訳だが、「こりゃ、かなわない」と応援に来ていた同僚達と発表を待たずに富山教育文化会館を後にした。駅前の居酒屋で「お疲れさん」と酒盛りをしていた。
同僚の中でひとりだけ「最後まで見てく」というのがいて「トシヒロ、選ばれたぞ、優秀曲賞だってさ」と雪の中を知らせにきた。

そう1981年1月16日は大雪だった。
特急列車は全て運休。動いているのはローカル線のみ。審査委員長のヤマハの越智氏(名古屋支部副支部長)が後に言っていた「特急が動かないから一旦行くのを止めにしたのだが、何か胸騒ぎがしてね。前夜からローカル線を乗り継いできたんだ」

通常はグランプリ曲のみ出場する「中部、北陸大会」なのだが、この方の推薦で僕も出場することになった。

大会は4月2日。
それまでの間、名古屋支部でクリニックを受ける。サポートバンドとの音合せ。この時のディレクターが後に東京本部で僕と「Look for myself」を制作する事になる「野口義修」氏。彼とは最新アルバム「Re:generation」も作ったところだ。
この時、「サヨナラ模様」をアレンジしたのが「森田雅彦」氏。「デジタル雨」「星のステーション」etc、数多くの楽曲を提供していただいている。今回のアルバムでも「To You」「ノスタルジック メロディー」をアレンジしている。

何度かの名古屋通いの後に臨んだ「中部北陸大会」季節はずれのインフルエンザを患ってしまった僕の声はヒサン…、熱は38度以上の状態。結果はこれまた優秀曲賞。つまり第2位。しかし今度はストレートに「つま恋本選会」へ。

5月10日、静岡にある「つま恋」の空は晴天。この時期にセミの鳴き声を聞いて大感激。野口氏に引率されてサポートメンバーとの出場は遠足気分。「慰安会」と称していた。
僕は観客が多ければ多い程、歌うのが楽しいタイプ。24番目の登場、気持ちよく歌わせていただいた。会場に蝶々がとんでるのがみえた。

歌い終ると芝生の上でメンバーとビールで「カンパイ!」
グランプリだと再演しなければならないのだが、誰も思ってなかったのか、よく飲んだ。
「何か賞はもらえるかな」とは思ってたけど「中部大会で2位の曲が本選会で…」というのもあった。

ところが発表が進むに従って各レコード会社賞がどんどん僕に送られる。酔ってドキドキしてるのかよく分からない状態の中で。司会の「円広志」氏が叫んだ「グランプリは!エントリーナンバー24!『サヨナラ模様』!」

この瞬間、僕の人生は大きく変化した。

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ここまでお付き合い頂きまして、ありがとう!今回はここまでにしときます。
この後の事は次回以降に・・・。またネ!